現代の猫は、ソファの上でだらしなく伸びている愛玩動物です。しかし4,000年前、猫は神でした。古代エジプトでは猫は女神バステトの化身とされ、殺せば死刑、死ねば家族が眉毛を剃って喪に服し、ミイラにされて埋葬されました。なぜエジプト人はそこまで猫を崇めたのか。そして、その崇拝はどのようにして消えたのか。4,000年にわたるエジプトと猫の歴史を、時代ごとに追いかけていきます。
始まりは穀物倉庫だった──紀元前2000年頃
エジプトと猫の関係は、実用から始まりました。ナイル川の氾濫がもたらす肥沃な土壌で農業が発展したエジプトでは、穀物倉庫がネズミの被害に悩まされていました。そこに現れたのが、リビアヤマネコ(Felis lybica)を祖先とする野生の猫たちです。
猫はネズミを驚異的な効率で捕らえました。エジプトの農民たちは自然と猫を歓迎するようになり、食べ物を与え、家の近くに住まわせるようになります。これが家畜化の始まりです。紀元前1980年頃の墓の壁画には、すでに人間のそばに座る猫の姿が描かれています。
しかし、エジプト人と猫の関係が他の文明と決定的に異なるのは、ここからです。ネズミ退治の功労者は、やがて神になりました。
バステト──戦の女神が猫になった理由
バステト(Bastet)は、もともと「セクメト」と同一視される獰猛なライオンの頭を持つ戦の女神でした。太陽神ラーの娘とされ、敵を焼き尽くす炎の力を持つ恐ろしい存在です。
ところが、紀元前1000年頃を境に、バステトの姿は徐々に変化します。ライオンの頭から、家猫の頭へ。戦の女神から、家庭・出産・豊穣の守護神へ。なぜこの変化が起きたのか。
研究者の間では複数の説があります。一つは、猫の家畜化が進んだことで、人々の身近にいる猫の姿が神のイメージに投影されたという説。もう一つは、エジプトの政治的安定期に入り、戦の女神よりも平和と繁栄の女神が求められたという社会的要因説です。いずれにせよ、バステトの変容は猫の社会的地位の劇的な上昇を意味していました。
バステトは右手にシストルム(ガラガラのような楽器)を持ち、左手にエギス(護符)を持つ姿で表現されます。足元には子猫が描かれることも多く、母性と保護のシンボルとしての性格が強調されています。
ブバスティスの大祭──70万人が集まった猫の祭典
ナイル川デルタに位置する都市ブバスティス(現在のテル・バスタ)は、バステト信仰の総本山でした。ここに建てられたバステト神殿は、ギリシャの歴史家ヘロドトスが「エジプトで最も美しい神殿の一つ」と記録しています。
年に一度開催されたバステトの大祭は、古代エジプト最大級の宗教行事でした。ヘロドトスによれば、70万人以上がナイル川を船で下ってブバスティスに集まり、音楽、ダンス、大量のワインとともに女神を讃えたといいます。
この祭りが面白いのは、厳粛な宗教儀式ではなく、むしろ現代のフェスティバルに近い「お祭り騒ぎ」だったことです。参加者は船の上から岸辺の住民に向かって衣服をめくって見せたり、歌い踊ったりしたとヘロドトスは記しています。猫の女神を讃える祭りが、古代世界屈指の「盛り上がるイベント」だった──この事実は、エジプト人と猫の関係がいかに生活に根ざしたものだったかを物語っています。
猫のミイラ──死後も一緒にいたいという祈り
古代エジプト人は猫をミイラにしました。それも、大量に。
1888年、エジプトのベニ・ハッサンで農民が偶然発見した猫の墓からは、推定8万体もの猫のミイラが出土しています。悲しいことに、当時のイギリス人はこのミイラの歴史的価値を理解せず、大部分を肥料としてイギリスに輸送してしまいました。19トンもの猫のミイラが、リバプールの農地に撒かれたのです。
猫のミイラには大きく2種類ありました。一つは、愛猫の死後に家族がミイラ化を依頼する「家族の猫のミイラ」。もう一つは、バステト神殿への奉納用に作られた「奉納ミイラ」です。後者は、神殿付近で飼育された猫を儀式的に殺してミイラにしたもので、参拝者が神殿で購入し、バステトへの祈りとともに奉納しました。
現代の感覚では矛盾に見えるかもしれません。猫を崇拝しながら、奉納のために猫を殺す。しかし古代エジプト人にとって、ミイラ化は「永遠の命を与える」行為でした。猫を殺すのではなく、永遠の存在に変えるのだ──そう信じていたのです。
猫を殺せば死刑──古代エジプトの猫保護法
古代エジプトでは猫を殺すことは重罪でした。ディオドロス・シクルスの記録によれば、ローマ人の兵士が誤って猫を殺した際、怒った群衆がその兵士をリンチにしたという事件があったとされています。
猫の輸出も法律で禁止されていました。しかし、フェニキア人やギリシャ人の商人たちは猫を密輸し、地中海世界に広めていきました。エジプト政府は密輸された猫を取り戻すために使者を各地に派遣したという記録が残っています。国家レベルで猫の流出を防ごうとした──おそらく人類史上、唯一の事例でしょう。
裕福な家庭では猫に金の宝飾品を身につけさせ、専用の食事を与えていました。猫が死ぬと家族全員が眉毛を剃って喪に服し、喪の期間は猫のミイラ化が完了するまで続いたといいます。
ペルシアの策略──猫を盾にされたエジプト軍
エジプト人の猫への愛情が、戦場で弱点になったという逸話があります。紀元前525年、ペルシア王カンビュセス2世がエジプトに侵攻した「ペルシウムの戦い」です。
ポリュアイノスの記録によれば、カンビュセス2世は兵士の盾に猫を括りつけ、さらに軍勢の前に猫や犬を放って進軍したとされています。猫を傷つけることができないエジプト兵は戦意を喪失し、ペルシアは圧勝。ファラオ・プサメティコス3世は捕らえられ、エジプトはペルシアの支配下に入りました。
この逸話の信憑性については議論がありますが、「猫を盾にすればエジプト軍には勝てる」という発想自体が、古代世界におけるエジプトの猫崇拝がいかに広く知られていたかを物語っています。
崇拝の終焉──ローマ帝国とキリスト教
紀元前30年、クレオパトラの死とともにエジプトはローマ帝国の属州になります。ローマ人は猫を崇拝する習慣を持たず、バステト信仰は徐々に衰退していきました。
決定的だったのは、4世紀のキリスト教の国教化です。391年、テオドシウス帝が異教の神殿の閉鎖を命じ、バステト神殿も破壊されました。4,000年近く続いたエジプトの猫崇拝は、こうして終わりを迎えます。
しかし、エジプト人の猫への愛情が完全に消えたわけではありません。現代のカイロにも多くの野良猫が暮らし、住民は日常的に餌を与えています。イスラム教が猫を清浄な動物として尊重する文化的背景もあり、エジプトの猫文化は形を変えながらも生き続けています。
世界各国の猫文化の違いについては、世界の猫文化比較──日本・トルコ・エジプト・イギリス・台湾。同じ「猫好き」でも、こんなに違うで5カ国を横断的に比較しています。猫とアートの関係に興味がある方は、猫アートの全史。浮世絵からNFTまで、猫は常にアートの中心にいたもおすすめです。
FAQ
Q. 古代エジプトの猫は現代の猫と同じ種類ですか?
古代エジプトで家畜化されたのは、アフリカヤマネコ(リビアヤマネコ / Felis lybica)です。現代のイエネコ(Felis catus)の直接の祖先にあたります。見た目は現代のキジトラに近いとされていますが、体格はやや大きく、野性味が残っていたと考えられています。DNA分析により、現代の猫がエジプトから地中海世界に広まったことが確認されています。
Q. バステト神殿は今でも見ることができますか?
残念ながら、バステト神殿はほぼ完全に破壊されています。現在のテル・バスタ(ザガジグ市近郊)には遺跡の一部が残っていますが、観光地として整備されているとは言い難い状況です。猫のミイラはカイロのエジプト考古学博物館や、ロンドンの大英博物館で見ることができます。
Q. なぜエジプトは猫の輸出を禁止していたのですか?
最大の理由は宗教的な価値観です。猫はバステトの化身であり、神聖な存在をエジプト国外に持ち出すことは冒涜とされました。加えて、穀物倉庫のネズミ退治という実用的な役割もあり、猫の流出は国家の食糧安全保障にも関わる問題でした。宗教と実利の両面から、猫の輸出は厳しく制限されていたのです。
まとめ
古代エジプトの猫崇拝は、ネズミ退治という実用から始まり、宗教的神格化を経て、法律による保護、国家レベルの輸出規制にまで発展しました。4,000年にわたるこの歴史が教えてくれるのは、猫と人間の関係は常に「役に立つ」から始まり、やがて「意味がある」へと変容するということです。現代の私たちがSNSに猫の写真を投稿し、猫グッズを集め、猫カフェに通うのも、形は違えど同じ衝動なのかもしれません。
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執筆:URAYAMA NO NEKO / Tetsu Onodera

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