イギリスと猫の関係は、どこまでも「実務的」です。神として崇めるわけでもなく、SNS映えのために集めるわけでもない。ネズミを捕るから飼う。役に立つから一緒にいる。けれど、その実務的な関係の奥に、深い愛情と敬意が隠れています。ダウニング街10番地で15年以上も「勤務」し続ける官邸猫ラリー、何百年もの歴史を持つパブの看板猫文化。この記事では、紳士の国イギリスにおける猫と人間の独特な距離感を深掘りしていきます。
官邸猫ラリー──首相より長く「在職」する猫
イギリスの首相官邸であるダウニング街10番地には、公式の肩書を持つ猫がいます。「Chief Mouser to the Cabinet Office」──日本語にすれば「内閣府首席ネズミ捕獲長官」。現在その職に就いているのが、ラリーという名のオスのタビー猫です。
ラリーは2011年2月、バタシー犬猫保護施設からダウニング街に迎えられました。当時の首相はデイヴィッド・キャメロン。以来、テリーザ・メイ、ボリス・ジョンソン、リズ・トラス、リシ・スナク、キア・スターマーと、首相が何人入れ替わっても、ラリーだけは官邸に居続けています。政治家よりも長く在職する猫。これは冗談ではなく、イギリスの猫文化の本質を物語るエピソードです。
ラリーの「公務」とSNSの人気
ラリーにはX(旧Twitter)の公式パロディアカウントがあり、フォロワーは90万人を超えています。投稿内容は政治風刺が中心で、首相交代のたびに「また新しい同居人が来た」とつぶやく。イギリス人の皮肉なユーモアと猫の気まぐれさが完璧にマッチしていて、BBCやガーディアンといった大手メディアもラリーの動向を真面目に報道します。
実際のネズミ捕り成績については、正直なところ「あまり優秀ではない」と報じられることもあります。けれど、イギリス人はそれすらも愛しているのです。仕事をサボる官僚への皮肉を、猫に投影して楽しむ。この距離感が、いかにもイギリスらしいと言えるでしょう。
官邸猫の歴史は500年。ヘンリー8世の時代から続く伝統
ダウニング街に猫がいる歴史は、実はラリーが最初ではありません。記録に残る限り、16世紀のヘンリー8世の時代にはすでに政府の建物にネズミ捕り用の猫が配置されていました。財務省には「猫手当(cat allowance)」として年間1ペニーが計上されていた記録もあります。
20世紀以降で有名な官邸猫には、1924年に着任したトレジャリー・ビル、チャーチル時代のミュンヘン・マウザー、そしてブレア政権時代のハンフリーなどがいます。ハンフリーは特に人気で、1997年にブレア首相の妻シェリーが猫嫌いだという噂が流れた際には、新聞各紙が「ハンフリーを守れ」と大騒ぎしました。結局ハンフリーは引退して郊外の家庭に引き取られましたが、その「退職」はBBCでニュース速報として報じられたほどです。
つまり、官邸猫は単なるマスコットではなく、イギリスの政治文化の一部として機能しています。猫を通じて政治を笑い、猫を通じて権力との距離を保つ。この仕組みは、王室批判をユーモアで包む英国的な伝統と地続きです。
パブキャット──英国パブに猫がいる理由
イギリスの猫文化を語るうえで、官邸猫と並んで欠かせないのが「パブキャット(Pub Cat)」です。英国のパブには、伝統的に看板猫がいます。カウンターの上で丸くなる猫、常連客の膝に乗る猫、暖炉の前で眠る猫。パブキャットは何百年もの間、イギリスのパブ文化を形づくってきました。
なぜパブに猫がいるのか
理由はシンプルです。パブには食べ物があり、食べ物にはネズミが集まるからです。中世の時代からパブのオーナーは猫を飼い、穀物庫や食料貯蔵室をネズミから守ってきました。産業革命以降、衛生基準が厳しくなる中でも、パブの猫は「実用的な害獣駆除の手段」として黙認され続けました。
しかし、パブキャットが愛される理由は実用性だけではありません。イギリスのパブは「第三の場所」──自宅でも職場でもない、地域の社交場です。そこに猫がいることで、空間が柔らかくなる。初対面の客同士が猫を話題にして会話を始める。パブキャットは、いわば「人と人をつなぐ潤滑剤」として機能してきたのです。
Instagramで復権するパブキャット
2010年代以降、パブキャットはSNSの力で再び注目されるようになりました。Instagramのハッシュタグ「#pubcat」には数万件の投稿があり、「Cats in Pubs」というFacebookグループには15万人以上のメンバーがいます。ロンドンの「The Bag O’Nails」というパブは、15匹以上の猫がいる「猫パブ」として有名になり、世界中から猫好きが訪れるようになりました。
一方で、近年の食品衛生規制の強化により、パブから猫を排除する動きも出ています。EU離脱前の欧州食品安全規制では、食品を扱う場所に動物がいることが問題視されることもありました。伝統と規制のせめぎ合いの中で、パブキャットの未来は必ずしも安泰ではありません。
書店猫、美術館猫──イギリスの「職場猫」文化
パブだけではありません。イギリスでは書店、図書館、美術館、ホテルなど、さまざまな「職場」に猫がいます。
ロンドンの古書店街チャリング・クロス・ロード周辺では、書店に猫がいることは珍しくありませんでした。本の天敵である虫やネズミを退治するために飼われていた猫が、やがて書店の顔になっていったのです。フランシス・エドワーズ書店の猫は特に有名で、1960年代には「ロンドンで最も有名な猫」と呼ばれていました。
大英博物館にも、かつて公式の猫がいました。博物館のネズミを退治するために飼われていたマイクという猫は、1909年から1929年まで20年間勤務。その墓碑は今も博物館の敷地内にあります。
イギリスの職場猫に共通するのは、「最初は実用目的で飼われ、やがて文化になった」という経緯です。日本の猫カフェが「猫と触れ合うこと」を目的に設計されているのに対し、イギリスでは猫が「すでにいる場所」に人が集まる。この順序の違いが、両国の猫文化の根本的な差を生んでいます。
猫チャリティ大国イギリス──保護活動の厚み
イギリスは、世界で最も動物保護の歴史が長い国の一つです。1824年に設立されたRSPCA(王立動物虐待防止協会)は、世界最古の動物福祉団体。そしてラリーの出身地でもあるバタシー犬猫保護施設(Battersea Dogs & Cats Home)は1860年の設立で、160年以上の歴史を持ちます。
現在、イギリスには猫専門のチャリティ団体「Cats Protection」があり、年間約20万匹の猫を保護・譲渡しています。財源は寄付とチャリティショップの売上。イギリス各地にCats Protectionのチャリティショップがあり、中古品の売上が猫の保護活動に充てられるという仕組みです。
「動物に優しい社会をつくるのは、感情ではなく仕組みである」──この考え方がイギリスの保護活動の根底にあります。保護猫カフェという”思想のある空間”に行ってきたは日本でも広がっていますが、チャリティの仕組みとしての成熟度は、イギリスに一日の長があります。
なぜイギリス人は猫を「愛している」と言わないのか
ここまで読んで気づいた方もいるかもしれません。イギリスの猫文化には、日本やトルコのような「猫への熱烈な愛情表現」がほとんどありません。「かわいい!」と叫ぶ代わりに、「まあ、いてくれると助かるよね」というトーン。猫を溺愛するのではなく、猫の存在を「当然のこと」として受け入れる。
これは、イギリス人の国民性と無関係ではないでしょう。感情を抑制し、ユーモアで包み、実用性を重んじる。猫との関係も、人間同士の関係と同じ流儀で営まれているのです。世界の猫文化比較──日本・トルコ・エジプト・イギリス・台湾。同じ「猫好き」でも、こんなに違うでも触れましたが、猫との付き合い方には、その国の人間観がそのまま映し出されます。
イギリス人にとって、猫は「パートナー」です。上下関係でも、崇拝の対象でもなく、互いに距離を保ちながら同じ空間にいる。猫の独立心を尊重し、猫もまた人間のルールに従わない。この関係性は、皮肉にも「理想的な大人の付き合い方」そのものかもしれません。
よくある質問
Q. 官邸猫ラリーは本当にネズミを捕っているのですか?
公式には「ネズミ捕獲長官」ですが、実際の捕獲成績はそれほど高くないとされています。2012年にはキャメロン首相のスポークスマンが「ラリーはネズミ捕りより昼寝の方が得意だ」とコメントしたこともあります。ただし、猫がいるだけでネズミが近寄りにくくなる抑止効果はあるとされ、ラリーの存在自体がイギリスの政治文化のアイコンとして機能しています。
Q. イギリスのパブで猫に会えるのはどこですか?
ロンドンの「The Bag O’Nails」は15匹以上の猫がいることで世界的に有名です。ただし、食品衛生規制の影響で猫を置かなくなったパブも増えています。訪問前にSNSで最新情報を確認するのがおすすめです。Instagramの「#pubcat」や「#catsinpubs」で検索すると、現在も猫がいるパブの情報が見つかります。
Q. イギリスで猫は犬より人気があるのですか?
2024年時点で、イギリスの猫の飼育頭数は約1,100万匹、犬は約1,200万匹とほぼ拮抗しています。ただし、猫は犬よりも飼いやすいこと(散歩不要、一人暮らし向き)から、近年は猫の飼育が増加傾向にあります。一人暮らしで猫を飼うという選択。25歳、1Kの猫ライフは日本でも同じ傾向が見られます。
まとめ
イギリスの猫文化は「実用と敬意の共存」で成り立っています。ネズミを捕るために官邸に置き、パブに置き、書店に置く。けれど、そこには確かな愛情がある。ラリーが15年以上も官邸にいられるのは、首相が変わっても「猫を追い出す」という発想がイギリス人にはないからです。猫を崇めるのでもなく、猫を消費するのでもなく、猫と「大人の距離感」で付き合う。それが紳士の国イギリスの流儀です。
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執筆:URAYAMA NO NEKO / Tetsu Onodera

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